翻訳とは何でしょうか? みなさんのなかには翻訳を仕事にしたい、好きな本を訳してみたいと思う方もいらっしゃるでしょう。一口に翻訳といっても、職業として成り立つものから、大事だけれど飢え死に覚悟の文化事業までじつにさまざまです。そこには、なぜ日本で翻訳がこれまで必要とされ今なお必要とされているのか、という歴史?文化的な問題も絡んできます。いっぽう実践としての翻訳に目をむければ、翻訳とはつまるところ、ことばと文化を相手にした「格闘」です。敵=日本語を知らなければなりません。翻訳をとおして見えてくる日本語の特徴も具体的な例を交えてお話しいたしましょう。
11958年東京生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。現在、早稲田大学講師。専攻、フランス文学、ロマンス諸語文学。主要論文に、「バルザックの〈面〉と〈線〉1~6」、L'Education sentimentale ou le monde des simulacres I~IV(仏文)、Toccate e fughe in Un pomeriggio, Adamo di Italo Calvino(伊文)など。主要訳書にトロワイヤ『バルザック伝』(白水社、1999年)、エニグ『事典 果物と野菜の文化誌』(共訳、大修館書店、1999年)、ドス編『ブローデル帝国』(共訳、藤原書店、2000年)、フィエロ『パリ歴史事典』(共訳、白水社、2000年)、エニグ『剽窃の弁明』(現代思潮新社、2002年)、ウォーラーステイン他『入門?ブローデル』、フランドロワ編『「アナール」とは何か』(藤原書店、2003年)など。
「私たちの大学はもとより、「外国語」や「国際」を銘打つ大学の学部や専門学校は多く、その大半の生徒は専攻をいかした職業、たとえば翻訳や通訳といった分野で活躍する日を夢みて日々励んでいるのではないだろうか。講師の尾河直哉氏は、アナール派歴史学の草分けフェルナン?ブローデルに関する研究書『ブローデル帝国』(共訳、2000年、藤原書店)、『入門?ブローデル』(2003年、藤原書店)などを翻訳するかたわら、大学で後進の指導にも当たっている。尾河氏は今回、自らの体験をもとに、語学力と翻訳能力が必ずしも一致するわけではない翻訳業の苦労を具体的に解説したばかりでなく、翻訳業界の構造とその中で「プロ」の翻訳家であるための諸問題をも率直に語った。終演後、学内の学生たちからは、「翻訳業は思っていたイメージと大分違うことを教えられた」「自分が翻訳家になるために何をすべきかがはじめて実感できた」といった多数のメッセージがよせられた。
バブル崩壊以前の1990年代、「翻訳学校」と名のつく機関はおよそ100前後あり、どれも大盛況だったといわれる。しかし、その中の何割も翻訳に関連した仕事にありつけない。さらに、「翻訳家」といえばそれだけで身をたてているかのように響くが、実際そんな人々は翻訳業に携わる人口のほんの一握りにすぎない。というのも翻訳業はまず、各種企業や研究機関から依頼された雑多な文書を訳す「産業翻訳」と、海外の小説や専門書などを訳本として日本で出版する「出版翻訳」とにわけられる。前者は当然ながら後者より需要が多く、業界の所得総額は年間400億円といわれるが、訳されたものは個人の業績になりにくく、作品としてのヒットもめったにない。一方、出版翻訳は年間数千点が刊行されており、総収入は30億円以上にのぼるが、これはいわゆるフリーの翻訳家千人強の手によっているので、きわめて厳しい状況といわざるをえない。さらに内訳をみると、年に3冊以上訳本が出せる人間は100人弱、継続的に翻訳の依頼を受注できるのも約100人、そしてこの中で出版のみで食べていける者はたった十数人のみである。翻訳学校を卒業しても、千人に一人がこの中に入れるかどうかというところだ。そして、実際に活躍している翻訳家たちの多くは、大学その他の教員や研究員の肩書きを持っており、副業として翻訳を続けている。つまり、翻訳を学びに来る学生たちこそが翻訳業界を支えているという構造ができあがっているのだ。翻訳家を目指す若い世代にとっては「だまされた」感すらある、何とも夢のない話かもしれない。。
では、なぜそれでも翻訳をめざすのか。それは翻訳が楽しいからに他ならない、と尾河氏はいう。訓練を積むためには、まずある程度の量を読みこなさなければならない。だが、一定レベル以上の専門書や優れた文学作品はむしろ「ゆっくり読む」事が大切になってくる。何度も、そしてわずかな量にたっぷりと時間をかけて読むことは、忙しい現代の情報社会では非常な贅沢であり、その作品の中に深く没入してゆくことができる。その上で、翻訳は日本語を駆使して原文の雰囲気を再現したり、自分なりの演出を試みたりできる知的な作業であり、それを他人が読んでくれるという喜びがある。単なる情報のみならず、各国の文化は全般に翻訳によって私たちの国に伝えられてきた。だが現代では、原典の「模倣」、すなわち原文を忠実に訳すだけでなく、翻訳家のオリジナリティもが問われている。さらに日本では訳者名を表に出して刊行できるので、そのために個人の業績としても数えられるのだ。
議員として活動を始めたある時、衆議院本会議での議決に際して「異議はありませんか」と問う議長に対し、河野氏ら数人の自民党議員が「異議があります」と応じたところ、「異議なしと認めます」との一言で会をしめくくられてしまったことがあるという。衆議院本会議にはシナリオがあって、議長がそのシナリオ通りに進行しさえすれば会議はつつがなく運ぶようになっており、仮にその通りに行かなかった場合でも、既存の筋立てに反するような「現実」は起きていないものとして処理されるのが国会の現実らしい。そればかりか、異議の出ないはずのところで「異議あり」の声があがったということで、国会対策委員会などの幹部は「根回しが足りなかった」と譴責すらされたという。また、別な臨時国会の特別委員会で、河野氏が法案採決に反対の立場をとったところ、自民党の委員会理事に呼ばれて委員をクビにされたこともあるという。議員は党の方針には絶対服従ということのようである。
魅力ある翻訳を手がけるためには、つねに新しい言語表現を創り出していく必要がある。そのためにも、私たちの使う日本語の特徴をよく知っていなければならない。例えば、誰でも学生時代の和訳の授業で経験したことのある人称代名詞の問題がある。「彼/彼女」のような語は、かつて英文解釈の便宜上使われていたはずの代名詞だったのが、学校の制度化に伴い、和訳として定着してしまったものらしい。この耳につく、ともすれば無機質に響きがちな言葉をいかに処理するのか。尾河氏はその例を、歴代の翻訳家たちの業績から抜き出し、比較しながら解説する(山岡洋一2001「翻訳とは何か-職業としての翻訳」日外アソシエーツ、40-41頁参照)。また、柳瀬尚紀の「翻訳はいかにすべきか」(2000年、岩波新書)のように、「彼/彼女」をいちども使わずに見事な訳文を展開する方法もある。
さらに欧米人がよく理解に苦しむ日本語の主語もある。例えば「こんにゃくはやせる」という文では、いったいどれが主語なのか?「象は鼻が長い」といった表現は、主格はどこで、何を強調したいのか?実は東南アジア(マレー語など)にもよく見られるこの種の表現は、論理的には曖昧かもしれないが、情緒的には非常に豊かなアジア的描写方法なのだ(三上章1960「象は鼻が長い」くろしお出版、金谷武洋2002「日本語に主語はいらない」講談社選書メチエなども参照)。そのことを反映させて、日本人がその内容に自然な共感を抱くような翻訳を工夫するのが、翻訳家の醍醐味であるといえる。
上記のような実用的な翻訳例と参考文献を紹介しつつ、尾河氏は翻訳への道のりの遠さ?険しさと、しかしながらそこへ到達したときの大きな喜びとを伝えることで、今まさに語学に取り組む学生たちにエールを送りながら講演を締めくくった。