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「ジャーナリストへの道⑥ー沖縄との出会い」

2024/07/30

文 黒田 勝弘 (アジア言語学科韓国語専攻客員教授?産経新聞ソウル駐在客員論説委員)

筆者の顔写真

新聞記者には特定の分野ではなく何でもやるポストに“遊軍”というのがある。新聞社の政治部や経済部、文化部、科学部などはそれぞれその分野を専門に取材するが、社会部の場合は事故、事件をはじめさまざまな社会的事象が取材対象になる。そこで若手の記者はまず社会部記者を経験させられることが多いが、社会部でも警察や司法担当などは毎日、記者クラブに出入りしながら主に事件的なニュースを担当する。ところがそのほかに、何でもやる“遊軍”というのがあって、あらゆる出来事に臨機応変に対応する記者たちがいる。

 

遊軍とは元は“遊撃隊”のことでゲリラを意味する。遊軍記者は時にはテーマを選んで長期的な企画取材もする。遊軍記者は何でも屋の社会部の中でも最も何でも屋的だ。そして出来事(ニュース)を待っているのではなく、逆にニュースの掘り起こしもやる。筆者は記者生活初期の20代から30代にかけて約10年間の社会部記者時代を、ほとんど“遊軍”として過ごした。

そんな遊軍記者時代の1970年秋、沖縄を訪れた。当時の沖縄は米軍統治時代で外国扱いだった。通貨はドルで渡航にはパスポートに準じる政府発行の渡航証明書が必要だった。しかしやっと1972年の日本復帰が決まり、事前に国会議員を選出する”国政参加選挙“が行われることになった。取材目的は日本復帰直前の沖縄の様子と、初めての選挙の様子を伝えることだった。3週間ほど滞在したが、取材の一つに「国政参加に期待する沖縄の声」という連載企画があった。

 

地元のさまざまな声を聞いて回る中で、東京の国会議事堂から最も遠い所に住んでいる有権者の声を届けようと考え、沖縄の最南西端に位置する与那国島に出かけた。企画取材で思いついたアイディアである。季節によっては台湾が見える与那国島で、最も西の端に住むサトウキビ農家の老夫妻を訪ねインタビューした。島の主な産業はサトウキビ栽培だった。滞在中、町役場や農協を含めいろんな人に会って島の実情を聞いた。選挙の投票前に企画原稿を東京の本社に送り、そして投票は11月13日に行われた。

選挙後もしばらく沖縄に滞在したのだが、その滞在中の11月25日、東京で「三島由紀夫割腹事件」が起きた。有名作家の三島由紀夫が東京?市ヶ谷の自衛隊に乗り込み、クーデターを呼び掛け割腹自殺したのだ。当時、沖縄でテレビの現場中継を見ながら「東京にいたなら確実に現場取材させられたなあ」と思った。この“歴史的大事件”の記憶もあり1970年秋の沖縄取材は今なお筆者にとっては印象的なのだが、実はこの時の“沖縄体験”には後日談がある。

 

取材あるいは記者という仕事を越え、その後、沖縄に引き込まれてしまったのだ。その背景には日中国交回復(1972年6月)という、これまた歴史出来事が関係している。1972年の年末だったか、先の沖縄取材で知り合った与那国島の農協組合長からある日、突然、手紙がきたのだ。手紙によると、与那国島では毎年、サトウキビ収穫期に台湾から農作業を手伝う労働者がやってきていたのだが、日中国交回復で日本が台湾と国交断絶したため労働者がこれなくなり、このままだと島の経済がダメになるので困っているというのだ。

 

先の取材で農協組合長からサトウキビ農業の現状を聞いた際、深刻な人手不足の話が出た。その時、筆者が冗談半分に「東京あたりでは若者がごろごろしているので連れてきましょうか」といったことを記憶していて「あの話なんとかならないでしょうか」というのだった。これには驚いた。冗談のつもりが本気で頼りにされてしまったのだ。記者に相談されても困る…。

 

しかし頼りにされたのを無視するわけにはいかない。結果は「よし、やろう!」となって、今でいえばNGOということになるだろうが、友人何人かと「援農舎」というミニ組織を立ち上げた。そして若者を中心に約100人の人手を集め、「援農隊」として与那国島に送り込んだのだ。その後、曲折はあったが「援農」は続いた。ただ、島の経済を支えるこうした支援活動は、手弁当のボランティア的な「援農舎」では長くは続けられない。

サトウキビの収穫は冬から春にかけての季節労働である。そこでこの時期が農閑期である北海道の農協の協力を求め、農協同士の人手提携につなげ、70年代半ばにいたって「援農舎」は手を引くことになった。その間、「援農」の季節には毎年、与那国島を往来した。沖縄問題といえば普通は米軍基地や安全保障問題など政治?外交問題だが、筆者はまったく異なる次元の異なるテーマで沖縄にかかわることになったのだ。それも記者の仕事とは無関係に。ただ、そのかかわりが記者の取材がきっかけになっていることを考えれば、これも記者冥利の一端ということになるかもしれない。

 

そして時が流れて2003年だったか、ソウルの筆者のところに与那国島から連絡があった。「援農隊30周年記念イベント」をやるのでこないかというのだ。筆者は1978年の韓国語学留学以降、沖縄あるいは与那国島とは縁が切れていた。今なお毎年、与那国島から年賀状をくれる友人はいるが、その後、訪れたことはなかった。連絡によると援農隊発案の功績で感謝状を贈呈するという。喜んでソウルから飛んでいった。北海道からの援農はその後も続いていた。

 

以上、沖縄の話は社会部のいわゆる“遊軍記者”の仕事から出たものだが、記者の仕事とは別途にNGO活動(?)で与那国島にかかわっていた1970年代の中ごろ、遊軍記者の新たな取材テーマとして気になっていたことがあった。韓国モノである。きっかけは1973年8月、東京で起きたいわゆる「金大中拉致事件」だった。

 

日本滞在中の韓国の若手の野党政治家?金大中氏を、韓国の情報機関が“政治的口封じ”のためホテルから秘かに拉致し、韓国に連行した事件で、国際的大事件となった。事件の後、日本ではマスコミを挙げて韓国批判が噴出し、韓国への関心が一気に高まった。否定的関心といおうか。世論には「韓国はひどいところだ」といって非難の声があふれ、この雰囲気が長く続いた。

政治的事件がきっかけの韓国非難だから、韓国はもっぱら政治的イメージで語られていたが、これに筆者は違和感を抱いたのだ。歴史的、文化的に縁の深い隣国なのにイメージが貧弱過ぎるのではないか、これを機会に政治的イメージから取り残された韓国、韓国人のあるがままの姿、実情を探り、紹介しようではないか、と。そこで考えたのが「韓国住み込み取材」である。韓国の普通の家庭に1カ月間、住み込み、そこから見える韓国、韓国人の様子を日本の読者に伝えよう、というわけだ。この企画は1977年夏に実現する。これはその後の語学留学など、筆者の韓国へのこだわりというか深入りのスタートになるのだが、話は次号に続く。