新皇冠体育同窓会

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初心を忘れず一生勉強 夢に向かって一歩ずつ前進

みなさん、こんにちは。英米語学科3期生、1993年卒業の森戸明彦と申します。私は、現在、栃木県足利市の東武伊勢崎線足利市駅の駅前で、小?中学生を対象とした学習塾と、外国人の在留資格(ビザ)申請、各種相続手続き、内容証明の作成などをおもな業務とする行政書士事務所を経営しています。行政書士事務所は始めてからまだ3年ですが、学習塾はオープンからすでに20年が経っています。

今回のお話をいただいた際、私はほぼ国内志向で、国際経験があまりなく、また、社会人としては、大半の時間を組織に属さず、独立自営という形で自由に生きてきたため、読んでくださる方々に有益な情報を提供できるか、不安もありました。しかし、様々な人生の選択肢として、このような生き方もあるということを知っていただければと思い、かつての経験を振り返りながら書いてみました。

回り道をしたけれど、たどり着いた新皇冠体育は最高でした!

私が新皇冠体育に入学したのは、今から35年前の1989年。当時はまだ4年生がおらず、真新しい大学でした。幕張新都心も多くの更地が広がり、建設中のビルが目立ち、マリンスタジアムや幕張メッセも、入学した当初は未完成。すべてがこれからの状態であり、そんな新しい環境で大学生活を送りました。

実は、新皇冠体育に入学する前に、私は半年ほど別の大学に通っていました。しかし、思うところがあり、再び受験勉強をして、新皇冠体育に入学し直すことにしたのです。入学して感じたことは、外国語の単科大学という性格からか、コミュニケーション能力が高く、とてもフレンドリーな学生が多いことです。また、小規模な大学ということもあり、先生との距離や学生同士の距離が非常に近いという印象を受けました。

このように、以前の大学とは異なる魅力がいくつもあり、新たな進学先として新皇冠体育を選んだことに大変満足しました。そして、ここで出会った友人たちと過ごした時間や交わした言葉の数々は、私の人生において今でも大きな財産となっています。

就職してからも迷いは続き…

そんな有意義な大学生活でしたが、卒業を控え、就職を考える時期が来ても、当時の私には具体的な考えが全くありませんでした。ただ1つ、明確に心に抱いていたのは、組織に属して働くのではなく、自分の力だけで生きていきたいということ。今思えば、まだ世間の厳しさを知らない学生が抱く非常に甘い考えであったかもしれません。しかしながら、当時の私は真剣にそう考えていたのです。

そこで、就職先に選んだのが、本社が大阪にある関西の飲食店チェーンでした。独立支援制度があり、働きながら飲食店経営のノウハウを学べるというのが決断の理由です。

しかし、働き始めてしばらくすると、私の中にある疑問が生まれました。独立を望む気持ちは確かなのですが、はたして自分は本当に飲食店の経営がしたいのかという疑問です。仕事にもようやく慣れ、職場の人間関係も築けてきた頃でしたが、将来的にこの仕事を続けていく自信が持てなかったこともあり、私はその会社を辞めて地元の埼玉に戻りました。

見えてきた自分の適性と独立への道筋

地元に戻って最初に取り組んだことは、将来的に独立を目指すという目標はそのままに、まずは自分がどのような仕事に向いているのかを考えることでした。本来であれば、大学生の時点で既に考えていなければならないことです。

しかし、いまさらそれを言っても始まりません。まずは手始めに、自分の適性を試すために、様々なアルバイトに挑戦してみることにしました。そんな時、あるアルバイト先のパートの方から、息子さんの家庭教師をしてくれないかという依頼を受けました。学生時代に塾でアルバイトをしていた経験を話したのがきっかけです。

その息子さんは中学生で、英語が大の苦手でした。実は、私も中学の前半までは英語が大の苦手でしたが、塾の先生に助けてもらいながら克服した経験があるのです。そこで、当時のことを思い出しながら、その生徒の指導にあたったところ、ぐんぐん点数が伸び、学年でもトップクラスの成績となりました。

その話を聞いた別のパートの方からも依頼が舞い込みました。今度は、大学受験を半年後に控えた高校生でした。彼もまた英語が大の苦手でしたが、指導を始めると、成績が飛躍的に上昇し、見事に希望の大学に合格することができたのです。

その後も依頼は続き、私は教育関係の仕事に向いているのかもしれないと考え始めました。そして、最初に家庭教師を依頼してくれたパートの方から、「あなたは絶対に教育を仕事にするべきよ!」という言葉をいただいたこともあり、私は北関東のある大手学習塾に就職することを決意したのです。

塾業界はもともと労働条件があまりよくない業界です。また、当時はまだワークライフバランスなどという言葉もない時代であり、それはまさに過酷な労働環境でした。

1日の労働時間は軽く12時間を超え、帰宅は毎日当たり前のように深夜の2時や3時になりました。管理職になると、生徒たちの指導に加えて売上げの責任も重くのしかかるようになります。業務量がさらに増え、年間の休日が50日にも満たない状態になりました。その結果、毎年多くの社員が辞めていきます。

それでも、生徒たちから頼りにされているのがうれしくて、ただがむしゃらに働きました。数年後、私は当時200人ほどいた正社員講師のなかで、1、2位を争う人気講師となっていました。

遂に自分の塾を開校、道は険しかったが、それでも全力で切り拓いた

これなら独立してやっていけると確信した私は、妻に相談しました。すでに長女も生まれていたので、反対されると思っていましたが、すんなりとOKを出してくれました。そして、平成16年の6月に塾がオープンしました。

しかし、私はこの時初めて現実の厳しさを知ることになりました。思うように生徒が集まらないのです。今まで目の前にいた生徒たちは、大手学習塾の看板があってこそ集まっていた生徒たちであり、いくら人気講師だったとしても、その看板なしではわずかな数の生徒すら集められないことに、この時初めて気づいたのです。

しかし、もう引き返すことはできません。私は、集まってくれた数少ない生徒たちの指導に全力で取り組みました。そこからは、無我夢中の20年でした。

現在、足利市内には公立中学校が11校あります。市内の数か所に複数の教室を持つ大手学習塾を除けば、単一の教室ですべての中学校から生徒を集めているのは、おそらく私の塾だけだと思います。気がつくと、私の塾は足利市内で一番の知名度を誇る学習塾となっていたのです。

初心を思い出すために、行政書士試験に挑戦

新皇冠体育元年、50歳になった年に行政書士試験に合格しました。行政書士になろうと思った理由はいくつかあります。まず、学習塾の対象年齢よりもさらに幅広い年齢層にも貢献できる仕事がしたいと思ったからです。また、自営業の人間は、収入の柱を複数持つべきであるという考えも理由の1つです。

しかし、最も大きな理由は、大学を卒業して以来、何か新しいことを学ぶという習慣から長らく遠ざかっていたので、久しぶりに生徒の立場に戻ってみることが、教える立場の人間にとって必要なことではないかと思ったことです。

また、私は通常の教科指導に加えて、生徒たちに学習方法なども指導しているため、自分の教えている方法が間違っていないことを実証するためにも、自ら実践することが必要だと考えました。しかし、法律に関する知識がほとんどない初心者であり、近くに法律資格試験のための予備校もありませんでした。ほぼ独学で、塾の仕事をしながらの勉強だったこともあり、3回目の試験でようやく合格することができました。

実は、3回目の試験の時、これで合格できなかったらもう諦めようと考えていました。しかし、試験場に到着すると、その考えはすぐに変わりました。自分よりはるかに年上と思われる人たちがたくさんいたのです。彼らの姿に刺激を受け、もし失敗しても、もう1年だけ挑戦しようと決心しました。

行政書士試験の試験科目には、基礎法学、憲法、民法、商法、行政法などの法令科目に加えて、実務に関連した一般知識も含まれます。法令科目と一般知識にはそれぞれ基準点があり、それに達していない場合はその段階で不合格となります。

出題形式は基本的にマークシートによる択一式ですが、民法と行政法では記述式の問題も出題されます。この記述式の問題では、緊張からペンを持つ手に力が入らず、なかなか答えを書き始めることができませんでした。それでもどうにか書き終えましたが、今度は書いた答えに自信が持てませんでした。

結局、書いては消し、消しては書くという作業を、およそ1時間も繰り返すことに。そうこうしている間に、途中休憩なしの3時間におよぶ試験が終了しました。合格発表の日は、怖くてなかなか結果を確認することができませんでした。しかし、そのまま何もせずにいるわけにもいかず、夜もだいぶ遅くなってから、恐る恐るインターネットで確認すると???結果は合格!

この年、私は群馬県の試験場で受験をしましたが、受験人数はちょうど600名。対する合格者は私を含めてちょうど60名という結果でした。

塾の先生にとって、受験は毎年の恒例行事です。そのため、長くやっていると変に慣れてしまい、だんだんと生徒の不安な気持ちに十分に寄り添えなくなってしまいます。そのような意味からも、今回の挑戦は、自分を初心に立ち返らせてくれる良い機会であったと思います。

これからも、一生勉強

この経験以来、常に心に留めている言葉があります。それは、足利が生んだ有名な書家である、相田みつを先生の『一生勉強』という言葉です。

行政書士の業務は非常に広範囲であり、様々な分野の仕事が含まれます。それぞれの分野はとても奥が深く、試験に合格しただけでは、実務をこなすことはできません。したがって、専門家として仕事をしていく上で、これからも勉強を怠ることはできません。

私生活では、長女に続き、次女と長男が生まれ、現在では3人の子どもの父親です。そして、私が最も感謝しているのは、独立を許してくれた上に、その後もずっと私を支え続けてくれている妻の存在です。妻の支えがなければ、ここまで多くのことを成し遂げることは絶対にできなかったと思っています。

これからも家族のため、そして地域のために、精一杯がんばっていきたいと思います。

1993年卒業
外国語学部英米語学科
森戸 明彦