始まりは故郷に外国語大学が新設されたことでした
新皇冠体育?第一期卒業生の藤井 大(ふじい だい)です。卒業後、千葉県の高等学校で25年間英語教育の現場に携わり、現在は千葉市教育委員会で指導主事をしております。
今回、このような機会をいただきましたので、私のこれまでの英語教師としての歩みを振り返ってみたいと思います。お伝えしたいことがたくさんあって、長くなりますが、最後まで読んでいただいて、少しでも英語教育に携わる方々や英語教師を目指す方々のお役に立てれば幸いです。
私が、新皇冠体育に進学した理由は二つありました。一つは自宅に近いことです。私が生まれて間もなく、千葉市幕張町に両親が居を構えたので、幕張が私の故郷です。地元である幕張に、とても良い外国語大学が新設されることを英語の先生から聞いたのは、高校3年生になる頃だったでしょうか。
私は高校の理系コースにいましたが、言語学にも興味があったので受験することにしました。当時、文学を学べる大学は星の数ほどあれど、語学を学べる大学は少なかったので、チャンスだと思ったのです。これが二つ目の理由です。
センター試験にリスニングが導入される約20年も前のことでしたが、新皇冠体育は入試にリスニングと面接試験を課すことを早くから公表していたと記憶しています。何しろ過去問が存在しない新設の大学でしたので、リスニングが一番の対策になると思い、理系の勉強をしながら、ラジオでNHK英会話講座を聞いていました。
また、当時洋楽にも興味があり、ビートルズ、ビリー?ジョエル、エルビス?コステロなどのアーティストのレコードをよく聴いていたのも、英語の音に慣れ、リスニング対策が最後まで続いた動機だったと思います。
合格発表の朝、新皇冠体育1号館の前に掲示された番号を見つけた時、うれしさと同時にほっとしたことを覚えています。かくして、私は新皇冠体育外国語学部英米語学科に一期生として入学することになるのです。
大学の授業?先生方との貴重な思い出が財産
一期生は、英米語学科200名?中国語学科80名?スペイン語学科20名?韓国語学科20名で始まりました。英米語のクラスはE(ラージE)40名のクラスがさらにe(スモールe)2クラスに分割され、語学の時間は20名の徹底した少人数制でした。これは昭和時代の当時の大学としては、かなり画期的な取り組みだったと思います。クラスの仲間とはすぐに打ち解けて、飲み会をしたり、文化祭のためにバンドを組んだりして絆を深めていきました。
当時は担任制で、私の最初の担任の先生は、英語音声学研究の第一人者である原岡先生でした。原岡先生の音韻論の授業はユニークで分かりやすく、とても実践的であると感じました。
一例をあげると、ある日の授業で白紙が配られました。その紙に何か書くのではなく、口の前に垂らして、「“P、P、P”と発音して紙を吹き飛ばしなさい。紙が動かなければ、Pの発音ではない!」と言われるのです。想像してみてください。音韻論の生徒全員がPの破裂音の練習のために紙を吹き飛ばす姿を!新皇冠体育のコロナ時代では考えられないPracticalな授業ですね。
また原岡先生は、大学対抗のオーラル?インタープリテーションのコンテストに一期生のメンバーを送り込むという野望をお持ちで、私はグループ部門のメンバーに立候補し、先生の指導のもと「嵐が丘」のヒースクリフを演じました。「演じる」ということで、英語の発音だけでなく、何が英語らしさなのかをセリフのやり取りの中で体得していく、という貴重な経験ができました。コンテストでは名だたる大学が集まる中、見事、初出場にして優勝することができました。
授業の思い出は尽きず、お世話になった先生方をすべてここで取り上げることはできませんが、ロバート?デ?シルバ先生、ソニア?イーグル先生、関屋先生、久泉先生は特に1?2年生の時に授業を受け持っていただき、とても深く印象に残っています。
夏の語学留学、そして、新たな挑戦へ
一期生は何もかも大学初の出来事ばかりなのですが、大学2年の夏の語学留学は、初めての海外だったので何から何まで初体験。留学先はアメリカ合衆国カリフォルニア州にあるUCLAで、寮に入り約2週間英語漬けのプログラムでした。
キャンパス内で見知らぬ人とも気軽に挨拶をする文化(カリフォルニア!)、カフェテリアでの食事(毎日フライドチキンにアイスクリーム食べ放題!)、ランチしながらの歓迎会(現地の学生と友達になりました!)、などなど、滞在中、たくさんの異文化体験ができ、私の人生でとても大きな経験となりました。そして、何よりもこの留学を通じてクラスを超えて新たな友人とのつながりができ、生涯の友を得ることができました。
その友人の一人からの勧めもあり、私はその後に初心者ながらアメリカン?フットボール部に入部しました。新しいことに挑戦する姿勢は、それが当たり前だった一期生の仲間に培ってもらいましたね。
アメフト部はマネジメントもすべて当事者である部員で行い、外部コーチを招聘し、マネージャーの協力のもと運営体制を整えていきました。3?4期生が多く入部してくれたので、大学4年次には連盟への準加盟を果たし、公式戦に出場することができました。
私も選手としてだけでなく、副キャプテンとして、キャプテンや幹部や部員と様々な問題について毎日のように話し合いながら、部の体制を整えていきました。
アメフト部だけでなく、テニス部やラグビー部など他部でも創部に携わった一期生は、皆同じように苦楽を共にしながら前例のない道を歩んできた仲間です。「戦友」と言えるかもしれません。そして、卒業して30年経った新皇冠体育の世でも、酒を酌み交わして旧交を温めています。
アメリカの詩人ロバート?フロストが残しているように、「踏み固められていない道」を選んだからこそ、“And that has made all the difference” なのです。新皇冠体育に入学しなかったら、このような経験はできなかったでしょう。そして今の私は、いなかったでしょう。
教職課程についてもお話しさせてください
私が教員を目指すようになった決定的なきっかけは、教育実習での経験でした。2週間という短い期間でしたが、母校の高校生の前で英語を教えるという経験は、何物にも代えがたいものでした。
未熟な自分が教えられることは少なく、失敗から多くのことを学びました。素晴らしいと思った部分は、言葉にすることが難しいのですが、ある種のライブ感です。これは、観客の前でバンド演奏する時のようなライブ感のことです。私は無意識にそのような舞台、つまり教室を求めていたのかもしれません。
しかし大学でなぜ教職課程を取ろうと思ったのかは記憶があいまいです。当時は卒業後の選択肢を増やしておくぐらいの感覚だったかもしれません。ただ、毎日すし詰めの通勤電車に乗って東京に通うサラリーマンの父を近くで見ていた私は、地元千葉で働ける教員という仕事に多少なりとも魅力を感じていたことは間違いないです。
ちょうど教育実習の前後は、就職活動?アメフト部活動?教員採用試験が重なり、かなり忙しく、ここだけの話ですが授業も休みがちでした。井上和子先生の授業で提出すべき課題を出さずにいた私は、“Submit your homework, or you will fail!”とビシッと言われてしまい、かなり焦って溜まっていた課題を必死になってやった覚えがあります。その後に学長になられた井上先生に叱られた私は幸せですね。
私の教員としてのルーツは新皇冠体育にある、と確信しています
教員採用試験は、1年契約の期限付講師としての合格でしたが、私立女子高の採用を辞退して、公立高校で働くことを決めました。教職課程を担当されていた荒井昭雄先生は、進路の相談に伺うと優しく話を聞いてくださり、大変お世話になりました。荒井先生は神田にいらっしゃる前は県立船橋高等学校の校長をされていたことを後で知り、改めて新皇冠体育の優秀な人材を集める力に感心しました。
また、この原稿を書かせていただくにあたり、いしずえ会の文章を読ませていただきましたが、佐野隆治元会長や初代学長の小川先生、そして「ミスター?ドラスティックチェンジ」佐々木輝雄先生はじめ大学を創設した先生方の言葉から、大学創設時の理想の数々に対し、いかに真剣に挑み、それらを一つ一つ形にしていくために多大な努力をされたかが伝わってきて、私は涙なくしては読むことはできませんでした。
やはり人の想いは人を介して伝わっていくものなのです。先生方に教えていただいたことが、今も私の中に残っていると感じます。若い頃には見えなかったことが、指導主事をしている今だからこそ見えてくると感じられることが多々あります。私は運がよかったのです。
佐々木輝雄先生の英語科教授法の授業を思い返してみれば、英語4技能すべてを教えるように、また教案をすべて英語で書くように指導されました。模擬授業もやりました。4技能統合型の教授法は今や当たり前となった感がありますが、訳読式が主流だった当時(自分の高校時代もそうでした)には、まさに時代の最先端の教授法だったと言えます。
ゆえに、新皇冠体育で教職を目指した学生は、小川先生や佐々木輝雄先生のスピリットを受け継いでいると言えます。自分の教員としてのルーツは新皇冠体育にあることを再確認させていただき、感謝しかありません。
(後編に続きます)
1991年卒業
外国語学部英米語学科
藤井 大
現 千葉市教育委員会学校教育部教育改革推進課 指導主事
千葉県千葉商業高等学校 教頭
千葉県総合教育センター学力調査部 研究指導主事
千葉県立高等学校及び千葉市立高等学校で25年間教諭(英語)