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仲代表の「グローバルの窓」

仲代表の「グローバルの窓」

第71回 “Numerous sagas were built.”??(数々の武勇伝が築かれた)

2024.07.19

歓送迎会

 私の出向したシンガポールの会社は、アジアの地域統括会社だったため、規模が大きく、事業部の方だけでなく、スタッフ部門の方も出向されていました。日本人だけで30人近くいたでしょうか。人の出入りも激しく、年に3~4回歓送迎会を開催していました。10月1日に赴任した私も10月の歓送迎会の対象者となりました。

 会では、新たに赴任した人を紹介する慣わしになっていて、おもしろおかしく紹介されます。私の場合、赴任早々、酔っぱらって警察のお世話になったこと(第70回ご参照)を、「これまでドイツ、イタリア、フィリピンの駐在を経験され、数々の武勇伝を築かれてきましたが、シンガポールに来てまだわずかしか経っていませんが、さっそく新たな武勇伝を築かれたと聞き及んでいます」という具合に紹介されました。全員が知っているわけではなかった事件ですが、見事に暴露されました。多分、元アジア事業第一部で一緒に仕事をした仲間だった社長秘書が原稿を作ってくれたのでしょう。私のこれまでのアジアでの活動にも触れられていました。

社長の寸言

 あの事件のことですが、けっきょく丸一日を警察署で過ごすことになり、解放されたのが夜の7時頃でした。翌朝、朝一番で社長(日本人)の部屋に行き、陳謝しました。社長は、怒りはしませんでしたが、一言さらりとアドバイスがありました。「アジア各国の社長がシンガポールに来るとよく二次会に誘われますが、私は行かないようにしています。酒が入るとどうしても乱れてしまうからです。仲さんももう若くはないのだから、ほどほどにされた方がいいかもしれません」と。なるほど、社長という立場にあると自らを律する必要があるとフィリピン時代に社長をしていた経験から納得しました。彼はまた、二重の意味で二次会に行かないようにしているようでした。乱れないというリスク回避だけでなく、一部の人とだけ付き合いが偏ってしまうことを避けていたのです。社長がいつも同じメンバーで酒を飲みに行くと、部下たちの間でやっかみもでます。また、とかく日本人は日本人だけで固まってしまいがちなので、現地の人はそれをあまり快く思わないことにも配慮しているのです。


シンガポールのコンドミニアム

 こんな調子で私のシンガポールの赴任生活は始まりました。家は一か月前に出張に来たときに決めてあったので、ホテルで2日ほど滞在したあと、すぐに移ることができました。単身赴任でしたので、街中で買い物やMRT(地下鉄)の乗り継ぎの便利な所にしました。

シンガポールはMRTやバスが非常に発達していて、どこに住んでも交通の便はいいのですが、私はシンガポール一の目抜き通りであるオーチャード通りのすぐ裏手のコンドミニアムを選びました。「サマーセット」という駅のすぐ裏手にあり、戦争中、井伏鱒二が住んでいた家が歩いて3分くらいの所にありました。また、初代首相のリー?クアンユーの住んでいた家も同じ界隈でした。オーチャード通りの裏手ですから、シンガポールのど真ん中といってもよく、東京でいえば、銀座四、五丁目の裏のようなものです。とはいえ、オーチャード通りを一歩中に入ると、すぐにレジデンスエリアとなります。たくさんのコンドミニアムが立ち並んでいて、スーパーもあり、たいへん便利でした。なんといっても「サマーセット」駅から歩いて1~2分なので、通勤は楽勝でした。

 コンドミニアムには、プールと小さなジムが付いています。シンガポールに駐在する人の住むコンドミニアムにはたいがいプールが付いています。南国の熱い国ですから、それなりのコンドミニアムとなるとプールは必須なのでしょう。私のコンドミニアムには、それ以外にテニスコートや簡単なバーベキュー設備、それからパーティールームもありました。3年間の滞在中、パーティールームは1度だけ、それ以外の施設はプールを除き、全く利用しませんでした。

 コンドミニアムを選ぶとき、いくつか見て回りました。ある人から、「シンガポールだったら、最近開発されたマリーナベイあたりがいいんじゃないの。毎日海の見える生活なんて優雅だよ」と言われ、マリーナベイ界隈も当たってみました。60階の高層でしたので、たしかに眺めはよく、海の見えるルームもありました。しかし、エレベーターが朝は混雑するらしく、10分待ちも普通と言われ、これはかなわないとすぐにあきらめました。また、マリーナ地区は埋め立て地ですので、人工的な雰囲気で物価も他のエリアより高かったのも選べなかった理由でした。

シンガポールでやりたいこと

「サマーセット」は立地条件としては最高だったかもしれません。毎朝、プールサイドで体操しましたが、南国の朝はまだ暑くなく、心地よかったです。しかし、山下奉文(1942年2月のシンガポール陥落の立役者)はどんな気分でシンガポールに暮らしたていたのか(半年もいなかったようですが)、大本営から派遣された辻政信はどうだったのか、といったことが頭から離れませんでした。シンガポールの赴任中、フィリピンではできなかった戦跡を訪ねることも私のやりたいことの一つでした。アジアでビジネスをする以上、太平洋戦争のことはもっと知る必要があるからです。

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