私が出向したNECフィリピン社は、フィリピンにある15のNECの関係会社や子会社を形式上統括する会社(冠会社)でした。それぞれの拠点は、工場、開発拠点、工事事務所など様々な機能を有し、そのトップのほとんどは50歳前後の年輩の方々でした。39歳の私は、一番若い社長でしたが、冠会社ゆえに「社長会」は私が仕切る必要がありました。
「社長会」は、月に1回実施され、それぞれの活動状況を共有したり、前回記載しましたように、本社から社長が来訪するといった重要イベントの場合は、社長のフィリピンでのスケジュールやそれぞれの拠点を訪問する際の報告のポイントなどを話し合ったり、調整したりしました。若造の仕切る「社長会」ですから、トップには猛者もいる中、当初はいろいろ言われると覚悟して臨みましたが、蓋を開けてみると私をサポートしようとみなさん協力的に動いてくれました。これには助かりました。
年に一度の「社長会ゴルフコンペ」もありました。しかし、私はゴルフをしなかったので、ゴルフをしない組の人たちと浜辺で歓談しました。事務局入れて20人くらいのうち、ゴルフをしない人は3~4人くらいだったと思います。ゴルフコンペは親睦を深めるチャンスでしたが、こればかりはどうしようもありませんでした。実は前任者からゴルフバッグを引き継ぎ、週末にコーチをつけて打ちっぱなしで練習したりもしていたのですが、けっきょくものになりませんでした。熱心さが足りなかったのだと思います。
「社長会」で親身にしてくれた電子コンポーネントの社長は、帰任するときに私のオフィスに来て、「お世話になったな。まあいろいろあると思うけど、がんばれよ」と声をかけてくれました。そのとき、「そうそう、これから通信大臣のところに帰任の挨拶に行くけど、いいチャンスだから紹介してやるよ。一緒に行こう」と言われました。どうもアポも取っていないようでしたので、「アポなしでも会えるんですか」と聞くと、「大丈夫。大臣とは親しいから」と言うではありませんか。
実際、大臣のところに行くと、大臣は電子コンポーネントの社長を歓迎し、帰任の挨拶を受けて、「残念だけど日本でもがんばって。フィリピンに来たときは連絡して」という気さくさでした。社長はついでに私を紹介してくれました。社長も社長なら大臣も大臣です。このざっくばらんでフットワークの軽さはなかなかいいぞと思いました。
? 社長という肩書は私のフィリピンでの行動をいい意味で抑制してくれました。私の行為一つでNECの評判が良くも悪くもなるからです。『フィリピーナを愛した男たち』(久田恵著、一九八九年刊)『フィリピンフール』(内田安雄著、一九九六年刊)『死んでもいい』(浜なつ子著、一九九九年刊)といったノンフィクション作品にみられるように、日本人の男性はフィリピン女性にはまりやすいのです。息苦しい日本社会を離れ、南国の香り豊かなフィリピンの風土に触れると心は一気に解放されます。フィリピンでは日本男性はみなもてはやされ、虚勢を張ることができます。日本ではぐれ者ほどフィリピンでは女性にもてるようです。『フィリピーナを愛した男たち』に出てくる男たちがことごとく生き生きしているのは、自分に素直になれるからなのでしょう。日本の価値尺度では測り得ない不思議な現象がフィリピンでは起こるようです。フィリピーナ恐るべし!しかし、私は残念ながら(笑)フィリピーナにはまることはありませんでした。社長という肩書のお蔭だったと思っています。